羽生の偉人
●清水卯三郎 しみず うさぶろう(1829〜1910年)
文政12年(1829)3月4日、造り酒屋清水弥右衛門誓一の三男として、現在の羽生市中央4丁目に生まれる。
文久4年(1864)には薩摩藩の大久保利通に依頼され、薩英戦争の和平斡旋にも尽力。慶応3年(1867)のパリ万国博覧会には商人としてただ1人参加。刀剣、陣羽織、酒、醤油、鏡、人形などを出品し、ナポレオン三世から名入りのメダルを賜りました。帰国後は、歯科医療器具の輸入や関連書籍の翻訳など、歯科医学の発展にも貢献しました。
明治43年に82歳の生涯を閉じ、東京都世田谷区の乗満寺に葬られていましたが、平成10年11月6日に卯三郎の先祖が眠る「正光寺」(北2丁目)に移転しました。
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清水卯三郎の銅像
(市民プラザ前)
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●松本伴七郎 まつもと ばんしちろう(1845〜1915年)
三田ケ谷村出身。松本中兵衛の子。
三田ケ谷は湿地帯で池や沼が多く、池や沼を鯉の養殖に活用することを考え、明治11年に鯉魚(りぎょ)養育会社を設立しました。
明治28年に上京し、養鯉にふさわしい場所を探しましたが、後に帰郷し、私財を投じて県内にふ化場を開設し、人工増殖を進めました。明治36年県水産奨励会を改組して埼葛水産組合とし、組合長を務め品評会を開催しました。
また、県立水産試験場の設置を郡下の村長等とともに、県議会に請願しました。伴七郎の死後、昭和26年に水産指導所が開設されました。
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●小沢愛次郎 おざわ あいじろう(1863〜1950年)
小針(行田市)に生まれ、桑崎村小沢家の養子となりました。
小野派一刀流を修行し、奥義を極めた後、明治21年に自邸内(桑崎)に「興武館」道場を設けました。
明治23年から31年まで埼玉県議会議員を務め、31年の第5回衆議院議員に初当選し、さらに第7〜10回の総選挙で衆議院議員を務め、5期にわたり国政に当たりました。武道を正科体育に取り入れるために努力し、明治39年3月にはその方針が議会で可決され、大正年間から正式に実施されました。
大正6年5月、吹上御所での天覧試合に出場しました。
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小沢愛次郎胸像
(毘沙門堂境内)
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●岡戸文右衛門 おかど ぶんえもん(1835〜1906年)
手子林村出身。「学問や教育は身をたてるもとであり、産業を盛んにすることに欠かせない。」と有志者と寺院などを借りて学校の開設に尽力しました。
明治19年中学校令公布で北埼玉郡立中学校が廃校になったのを憂慮し、多門寺村(加須市)の網野長左衛門と協力して郡内有志を説得し、私立埼玉英和学校を創設してこれを引き継ぎました。明治30年には埼玉尋常中学校に、大正10年には県立に移管されました。これは、現在の不動岡高等学校の前身です。
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●宮大工の三村家
本川俣の三村家は、歴代名匠の家柄で、7代正利(まさとし)の書いた記録によると、多くの神社を設計・建築しました。
毘沙門天拝殿(西1丁目)、加須市不動岡の不動尊御本堂、群馬県板倉町の雷電神社御本社が代表作です。
正利の弟は、妻沼聖天山歓喜院の貴惣門(国指定重要文化財・平成14年5月23日指定)を建築しました。
また、日展審査員を務め、東京新聞の題字を書いた書家の三村秀竹(1905〜1996)は、10代正好の長男です。
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総願寺不動尊堂側面図
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