公開日 2016年03月22日
更新日 2018年03月22日
羽生の偉人
清水卯三郎 しみずうさぶろう (1829~1910年)
文政12年(1829)3月4日、醸造業を営む町場村名主清水弥右衛門誓一の三男として、現在の羽生市中央4丁目に生まれました。
文久3年(1863)の薩英戦争において、通弁(通訳)としてイギリス船に単身乗り込み、和平に尽力しました。
慶応3年(1867)のパリ万国博覧会には商人としてただ1人参加。刀剣、陣羽織、酒、醤油、鏡、人形などを出品し、ナポレオン三世から名前入りの銀メダルを賜りました。帰国後は、歯科医療器具の輸入や関連書籍の発刊など、歯科医学の発展にも貢献しました。
明治43年に82歳の生涯を閉じました。3メートルもの高さがある墓碑は、東京都世田谷区の乗満寺から、平成10年11月6日に卯三郎の先祖が眠る「正光寺」(北2丁目)に移転しました。
清水卯三郎胸像(羽生市民プラザ前)
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うさぶろうまんじゅう |
松本伴七郎 まつもとばんしちろう (1845~1915年)
三田ケ谷村(羽生市)出身。松本忠兵衛の子。
三田ケ谷は湿地帯で池や沼が多く、池や沼を鯉の養殖に活用することを考え、明治11年に鯉魚(りぎょ)養育会社を設立しました。
明治28年に上京し、養鯉にふさわしい場所を探しましたが、後に帰郷し、私財を投じて県内にふ化場を開設し、人工増殖を進めました。明治36年県水産奨励会を改組して埼葛水産組合とし、組合長を務め品評会を開催しました。
また、県立水産試験場の設置を郡下の村長等とともに、県議会に請願しました。伴七郎の死後、昭和26年に水産指導所が開設されました。
小沢愛次郎 おざわあいじろう (1863~1950年)
小針村(行田市)に生まれ、桑崎村小沢家の養子となりました。
小野派一刀流を修行し、奥義を極めた後、明治21年に自邸内(桑崎)に「興武館」道場を設けました。
明治23年から31年まで埼玉県会議員を務め、31年の第5回衆議院議員に初当選し、さらに第7〜10回の総選挙で衆議院議員を務め、5期にわたり国政に当たりました。武道を正課体育に取り入れるために努力し、明治39年3月にはその方針が議会で可決され、大正年間から正式に実施されました。
大正6年5月には、吹上御所での天覧試合に出場しました。
小沢愛次郎胸像(毘沙門堂境内)
岡戸文右衛門 おかどぶんえもん (1835~1906年)
手子林村出身。「学問や教育は身をたてるもとであり、産業を盛んにすることに欠かせない。」と有志者と寺院などを借りて学校の開設に尽力しました。
明治19年中学校令公布で北埼玉郡立中学校が廃校になったのを憂慮し、多門寺村(加須市)の網野長左衛門と協力して郡内有志を説得し、私立埼玉英和学校を創設してこれを引き継ぎました。同校は、明治30年には埼玉尋常中学校に、大正10年には県立に移管されました。これが、現在の不動岡高等学校の前身です。
宮澤章二 みやざわしょうじ (1919~2005年)
大正8年6月11日、羽生市弥勒の出身。
昭和22年から4年間、埼玉県立不動岡高等学校で国語の教師として勤めました。この時期に旧大利根町(現加須市)に疎開していた作曲家の下総皖一氏と出会い、校歌などの作詞を手がけるようになりました。昭和27年以降は、東京に居を移し、NHKラジオ歌謡の作詩、放送台本の執筆などを手がけ、本格的に文筆活動を始めます。
昭和32年に旧大宮市(現さいたま市)に転居してからは、童謡・合唱曲・校歌・社歌・市民歌の作詞や、童謡の執筆など精力的に活動し、詩集の刊行も10数冊に及びました。校歌の作詞は、埼玉県内外の小・中・高校を中心に300校以上とも言われます。昭和46年には「ジングルベル」の訳詩が音楽の教科書に掲載されました。昭和36年からは、旧大宮市教育委員そして教育委員長を務めました。
詩『行為の意味』の一節、「心は見えないけれど、心づかいは見える。思いは見えないけれど、思いやりは見える」が、ACジャパンの2010年度キャンペーンCMに使用されました。東日本大震災後、このCMが頻繁に放映され、全国的に有名になりました。
宮大工の三村家
本川俣の三村家は、歴代宮大工の家柄で、特に7代正利は名匠としてほまれ高い人物で、埼玉郡北部地方から東上州にかけての多くの神社を設計・建築しました。
羽生市常木の雷電神社(常木神社)拝殿、加須市不動岡の不動尊御本堂、群馬県板倉町の雷電神社御本社が代表作です。
正利の弟は、妻沼聖天山歓喜院の貴惣門(国指定重要文化財・平成14年5月23日指定)を建築しました。
また、日展審査員を務め、東京新聞の題字を書いた書家の三村秀竹(1905〜1996)は、10代正好の長男です。
総願寺不動尊堂側面図(市指定文化財)
歴史
羽生をめぐる攻防~戦国のスター武将による争奪戦
戦国時代後期、現在の羽生市域は上杉氏、武田氏、後北条氏が争う錯綜した状況にありました。
上杉謙信、武田信玄、北条氏康・氏政父子がせめぎ合い、羽生領をめぐって攻防戦が繰り広げられました。羽生城の広田・木戸氏は上杉方として城を守っていましたが、最終的には後北条氏の支配下となりました。
羽生城の成立年代や構造等の詳細は定かではありません。江戸時代初期に羽生城主となった大久保忠隣の失脚により、慶長19年(1614)に廃城となりました。
羽生城跡(市指定文化財)
自由民権運動の一大拠点の通見社(つうけんしゃ)
明治新政府となり、民主主義思想から「国会開設」「地租軽減」「憲法制定」などのスローガンを掲げた自由民権運動が起こりました。これに賛同した堀越寛介は、県史によると、斎藤勝太郎・吉田暢四郎らと、明治初期に「通見社」という政治団体を組織し、現在の平野医院(中央4丁目)のあたりに事務所を設け、演説会などを開きました。
政治結社としては県内でも古い方で、結社の党員数は3,140人とされており、これが正しければ県内最大規模です。
風土・慣習
発戸遺跡(羽生市発戸)
昭和43年3月、発戸にある鷲明神社の西方の畑を田に改造するための土取り作業の際、地下70〜80cmの深さから縄文時代の石器や土器が多数出土しました。
中でも土面(写真下)は、関東地方随一のものです。写実的に眉・目・鼻・口が表現され、目には玉がはめこまれていた形跡があります。目と口の周辺は赤く塗られ、頬(ほほ)には三叉の文様が描かれています。顎(あご)には一条たどたどしい浅い沈線が刻まれています。この沈線は紐かけのすべり止めと考えられ、紐で額(ひたい)にゆわえたものと推察されます。
発戸から出土した土面(東京国立博物館所蔵)
宮神輿の渡御
「てんのうさま」のお祭りとして、広く市民の皆さんに親しまれている「羽生夏祭り」は、八雲神社の例大祭です。八雲神社は、社伝によると、平安時代中期の、天禄3年(972)に京都の祇園社(現在の八坂神社)を勧請し、御神霊をお迎えしたものと言われています。
御祭神は、素盞鳴命/スサノオノミコト(牛頭天王/ゴズテンノウ)で、「てんのうさま」の名もそこから来ていると思われます。
夏まつりの神輿の渡御は、江戸時代の初期、寛永2年(1625)から始まったとされています。そして現存している宮神輿は、享保8年(1723)の造立と言われ、宮神輿は「おんな天王」という名でも知られていますが、その名の由来は定かではないようです。
市指定文化財 |
本川俣のまわり地蔵
本川俣にはまわり地蔵と呼ばれる、千手院の檀家間約100軒を厨子に入れ大地蔵を背負って運ぶという風習があります。
かつては同じような風習が全国各地で行われていましたが、現在では多くの地域で途絶えたり、姿を変えていったりしています。本川俣地区に伝えられているこの習俗は、大変貴重です。
文化財(県指定文化財)
勘兵衛マツ(天然記念物)
羽生市大字上新郷(大正15年2月19日指定)
上新郷の宿通りから利根川畔別所地区に通ずる県道の西側に、松並木があります。この松並木は、寛永5年(1628)徳川家光が日光社参のおり、忍城主がその家臣勘兵衛に命じて植えさせたものであるといわれています。
明治8年の現況調査では69本あったようですが、現在は1本を残すだけとなっています。
川俣関所跡(旧跡)
羽生市大字上新郷(昭和36年9月1日指定)
川俣関所は慶長年間に設けられたともいわれ、後に忍藩の管理となりました。
日の出に開門、日没とともに閉門し、夜間は一般人の通行を禁止にしました。俗に「入鉄砲に出女」といわれ、鉄砲の江戸への持ち込みと、江戸に住まわせた諸大名の妻女が脱出しないよう、厳しく取り締まりました。
関所の番士は、橋元・大藤・佐藤・石川の四氏が世襲しました。
川俣関所絵図
川俣締切跡(旧跡)
羽生市大字上新郷(昭和18年11月27日指定)
徳川家康は、江戸入府を契機に武蔵国の新田開発と水害防止に着手しました。
「川俣締切跡」の碑には、次のことが書かれています。
『往古の利根川はこの地点で二つに分かれ、川の主流は南に流れ(現在の会の川は、その遺跡である。)もう一方の川は東に流れていた。文禄3年(1594)3月、忍城主松平忠吉は家老小笠原三郎左衛門に命じて、川の主流を締め切り、流れを変えた。これが世にいう利根川東遷の第一期工事である。』
永明寺古墳(史跡)
羽生市大字下村君(平成27年3月13日指定)
全長73m、高さ7m、前方部幅42m、後円部直径36mの前方部が発達した前方後円墳です。
昭和6年、後円部にある薬師堂の下から河原石を使用した礫槨(れきかく)あるいは竪穴式石室と考えられる埋葬施設が発見され、直刀、やじり、耳輪など、多くの副葬品が発見されています。築造年代は5世紀末から6世紀前半と考えられています。
銅像阿弥陀如来立像(彫刻)
羽生市大字下村君(昭和30年11月1日指定)
永明寺古墳近くに所在する永明寺が所有する銅製仏像です。善光寺式阿弥陀三尊の中尊で、鎌倉時代の作です。リズミカルに美しい衣文が整えられています。その様式美は、県内においても他にあまり例を見ない、完成度の高い像です。
像高は47.9cmで両脇侍像は失われています。現在、実物は埼玉県立歴史と民俗の博物館に管理が寄託されています。
埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵写真
木造薬師如来坐像(彫刻)
羽生市大字下村君(昭和33年3月20日指定)
ひのきの寄木造、玉眼、漆箔からなり、左手に薬壺を持った通例の薬師像です。像内背面に貞治6年(1367)に造立されたとの墨書銘がありますが、平安末期の定朝様(じょうちょうよう)の作風が残されていることから、これは修理の年号と思われます。
像高は84.8cmです。現在、実物は埼玉県立歴史と民俗の博物館に管理が寄託されています。
埼玉県歴史と民俗の博物館所蔵写真